’05 中欧3カ国周遊記⑥ ウィーンの観光地をご紹介!まずはシェーンブルン宮殿からスタート!

ウィーンは観光名所がたくさん

前日の夕方にウィーンに到着しましたが、ホイリゲで夕食をすませてからすぐにホテルにチェックインしており、その後は外に出ておりません。

なので、実質的な観光は今日一日だけとなります。

 

こちらは以前に別のホームページで公開していたのを、Yahoo!ジオシティーズ終了にともない移行・再編したものです。

 

ほぼ1日かけて観光した場所をこちらの地図に印を付けてみました。はじめにツアー団体のみんなでシェーンブルン宮殿に行き、お昼の食事をしてからは各々個人でフリータイム。翌日のホテルチェックアウトまでは勝手に観光して、勝手にホテルに戻って、勝手に夕食を済ませて良いとのことでした。なので、ガイドブック片手に歩いて観光してきます。

 

シェーンブルン宮殿の敷地は広い

まず最初にやって来たのはシェーンブルン宮殿。

「美しい(シェーナー:Schöner)泉(ブルンネン:Brunnen)」が発見され、これが「シェーンブルン」の由来となりました。

わざわざバスで来ましたが、ホテルの隣にあるのですぐに到着。ウィーンでも人気ナンバー1の観光場所だそうです。

 

シェーンブルン宮殿正面。横幅があるので普通のデジカメだと遠く離れないと全景を撮るのは難しい。

 

入口から宮殿まで100m以上は離れています。歩くことで離れていることを実感します。

 

バロック風のこの宮殿は、ハプスブルクの皇帝家が主に夏の離宮として使用していた場所でした。

 

宮殿の内部を見学します。パリのヴェルサイユ宮殿に対抗して造られたため、中はとても豪華絢爛でした。撮影は禁止だったので写真がないのが残念です。

 

宮殿内を見学後ちょっと自由時間となったのでもっと奥に進んでみます。

 

本当は庭園の奥の丘の上にあるグロリエッテまで行くつもりでしたが、集合時間に間に合わなさそうなのでその手前にあるネプチューンの泉まできて断念。敷地でかすぎ!

2年前に行ったモルディブ・ヴィルリーフの島が余裕で入ってしまうほどの敷地面積です。逆にヴィルリーフが小さすぎなのかもんしれませんが。

 

 

夜はこんな感じでした。(閉まってますが)

 

シェーンブルン宮殿を観光した後はバスに乗って、とある場所で降ろされました。ここはどこ?

 

ウィーン歌劇場

ここは国立オペラ座(ウィーン歌劇場)でした。残念なことに修理中です。きっと昼食までの「時間つぶし」としてここに立ち寄ったのでしょう。添乗員さんより一通りの説明を聞いて再びバスに乗り込みます。

 

ランチはドゥブロヴニクで

昼食会場となるレストランに到着したのはちょうど正午でした。場所はインターコンチネンタルウィーンホテル先の市立公園の東側にあるレストラン・ドゥブロヴニク。クロアチアっぽい名前ですが、ウィーンの料理ができてました(※現在は別のお店のようです)。

 

バーカウンターの先にテーブルがあります。

 

ウィーンでもビールは欠かせませんね。

 

こちらのレストランはコース形式で提供されました。まずはスープから

 

サラダは日本と変わりません。

 

ウィンナーシュニッツェル(仔牛)。オーストリアの名物料理なのですが、どこか日本の揚げ物に似ているせいか、まったく違和感ありません。親しみのある料理に満足です。

 

デザートにトルテが出ました。この後の自由時間にトルテを食べに行くのですが・・・

全体的に美味しくいただきました。

 

ヨーゼフ広場

ヨーゼフ広場にやって来ました。ブロンズ像の皇帝ヨーゼフ2世。

ヨーゼフ2世(ドイツ語: Joseph II., 1741年3月13日 – 1790年2月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1765年 – 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。

ハプスブルク家の男系は母マリア・テレジアまでであり、ヨーゼフ2世らの代からハプスブルク=ロートリンゲン家となる。全名はヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・ヨハン・アントン・ミヒャエル・アダム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語: Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen)。

父フランツ1世の死後、母マリア・テレジアとともに共同統治を行う。啓蒙思想の影響を受けながら絶対主義の君主であろうともした啓蒙専制君主の代表的人物であった。その政策と思想はヨーゼフ主義と呼ばれ、その急進的改革ゆえ「民衆王」「皇帝革命家」「人民皇帝」などのあだ名がある。(引用:Wikipwdia

 

王宮広場

ヨーゼフ広場から建物の間をくぐり抜けていくと、ホーフブルク王宮の広場に出てきました。ここにはフランツ1世の像があります。

フランツ1世(ドイツ語:Franz I., 1708年12月8日 – 1765年8月18日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1745年 – 1765年)、ロレーヌ(ロートリンゲン)公(フランソワ3世エティエンヌ (François III Étienne)またはフランツ3世シュテファン(Franz III. Stephan)、1729年 – 1737年)、トスカーナ大公(フランチェスコ2世(Francesco II)、在位:1737年 – 1765年)。全名はフランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲン(ドイツ語:Franz Stephan von Lothringen)。ハプスブルク=ロートリンゲン朝の最初の皇帝である。マリア・テレジアの夫であり、この婚姻により帝位を継承するが、自身が領していたロレーヌ(ロートリンゲン)公国はフランスへ譲らなければならなかった。2人の間にはヨーゼフ2世、レオポルト2世、マリー・アントワネットなど16人(男子5人、女子11人)の子が生まれた。(引用:Wikipwdia

王宮内にはシシィミュージアムがあって見学をしてきました。中は豪華絢爛で宮廷食卓調度・銀器コレクションもあります。でもやっぱり撮影禁止なので残念ながら写真がありません。

 

つづく

シェーンブルン宮殿、ホーフブルク王宮とはプルブルク家が栄華を極めた時代の名残を垣間見ることができました。いずれの宮殿とも内部は撮影禁止で自分の記憶でしか残せないのが残念です。

次は団体行動から自由行動に変わったタイミングで訪れた場所をご紹介していきます。

 

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